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60年の歴史 第5章

第1節 設計から試作鋳造までの一貫体制の構築

進む自動車業界のリストラと、経営危機

1998年(平成10)の日本メーカーの国内・海外自動車生産は、過去最大となった97年の1700万台から120万台減少して1580万台となった。 自動車産業の低迷は、自動車部品メーカーの業績にも顕著に表れる。当社も97年に過去最高を計上し、試作までの一貫生産を実現するため鋳造工場を建設して飛躍しようとしたものの、98年の売り上げは対前年比72%にまで落ち、以後、いっこうに回復する兆しはなかった。

しかし、こと自動車産業に関して言えば、バブル崩壊後の「失われた10年」は「リストラ(事業再構築)と創造の10年」でもあった。バブル崩壊後は、需要構造の急激な変化によって、小回りが利く柔軟な開発・生産体制が求められ、モデルチェンジのサイクルが4、5年に一度と、他の製造業に比べて製品サイクルが非常に長いうえ、少品種大量生産で利益を出してきた日本の自動車業界にとって社会の変化は非常に厳しかった。そのため、フレキシブルな開発・生産ラインにシフトすることが、自動車メーカーの大きな課題となった。自動車メーカーや自動車部品メーカーは高コスト体質を見直すために、商品設計の見直し、VA(価値分析)・VE(価値工学)などによる生産コストの削減を行った。しかし、その効果が出始めた95年から96年には1ドル=80円に迫る円高に遭遇、この円高に対し、さらにリストラを進める形でグローバル化がスタート、自動車メーカーや部品メーカーは日本国内の生産体制を見直して、海外シフトを進めた。97年から2000年にかけては日本経済のデフレ化に対応してさらにリストラを強化し、国内の生産・販売体制を見直して、各社ともに適切な生産規模に落としていった。開発に関しては、先述したプリウスのようにデジタル・エンジニアリングを駆使して開発期間が短縮され、試作金型などもゼロにして試作レスで車を造る試みも一部で出るなど、開発費用が従来に比べて30〜50%も削減し、デザイン決定から生産までの開発期間も短縮された。

当社の場合は、99年春には韓国大宇自動車のエンジン開発に着手しており、4気筒、6気筒自動車エンジンの金型の設計、製図を受注、年内にはV6エンジン部品なども受注する見通しで年間受注総額は約6億円と見込んでいた。ところが前述したように、同年7月には大宇グループの短期債務返済のための資金繰りがショートし、開発は中止のやむなきに至った。このとき、当社が大宇自動車から受注していた金額は約2億円余り。当然、全額補償されるわけはなく、多少でも補償されただけ良しとしなければならなかった。これによって業績のV字回復を見込んでいた事業計画は大きな打撃を受けた。加えて国内自動車市場の冷え込みで98年度に対前年比50%、80%に落ち込んだ杉山工業とアイシン新和の仕事は99年度もさらに対前年比48%、36%に落ち込んだ。デフレスパイラルに落ち込んだ日本経済は回復の糸口さえみえず、コスト圧縮要請はさらに強くなる傾向にあった。加えてコストの面から量産技術の海外移転が進み、アジアへの技術シフトも脅威となっている。圧倒的なコストダウンを図らなければならない危機的な状況に陥った。

以後、当社では、さまざまな経営改革、技術革新を行って、より高精度な製品づくりとコストダウンに取り組んで危機回避に努める一方、強みを生かした自動車エンジンのシリンダーヘッドに特化して、海外も含めたユーザーの開拓に乗り出した。

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