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60年の歴史 第3章

第2節 自動車産業へのシフト

泰伸専務の逝去

松村泰伸専務(当時)

自動車関連事業に比重を移し、着々と企業基盤を整備しつつあった1985年(昭和60)6月12日、二輪車向けのプラスチックなどの樹脂金型分野への事業拡大を志向していた泰伸専務が、急逝した。泰伸は幸作の長男で、1952年生まれ。81年に専務取締役に就任し、鋳造型以外のもう一つの柱として、二輪車向けのプラスチック金型分野の業容拡大を試行錯誤していた。享年32。専務取締役に就任してわずか4年だった。

学校法人金沢高等学校から帝京大学に進み、卒業後1年半余りを同業の金型メーカーである株式会社マスオカ(旧富山県福岡町)で修業し、76年に入社した。82年に胃ガンとわかり、闘病をつづけながら会社の発展に尽力していた。

当社の後継者として高岡市内に友人も多く、14日に行った社葬では友人の山本繁高岡市議会議員・市消防団長が葬儀委員長を務めた。会場となった松村家の菩提寺である稱念寺(高岡市大町)には、取引先、仕入れ先をはじめ友人など約500人が参列し、その早すぎる死を悼んだ。

幸作社長は3年前の82年には長女で一人娘だった洋子も病気で失っており、その悲しみも癒えないうちの不幸だった。知人への会葬礼状で次のような無念の思いを綴っている。

私の長男泰伸は約3年前胃ガンを患い、病気の間も一生懸命会社発展のために働いてくれました。病名を知らせずにいましたので必ず治ると信じながら頑張ってくれましたが、ガンという病には勝てずとうとう帰らぬ人となってしまいました。残念でなりませんし、長男が残念な思いで逝ったことを思うと可哀想でなりません。

志半ばで逝った泰伸専務のプラスチック樹脂金型への思いは浩史課長(当時)によって引き継がれたが、金型業界におけるプラスチック型は生産額も多いが、事業所数も多い。富山県のプラスチック型は全国でも3位の生産額を誇り、大規模事業者が多く競争も熾烈だった。一方、このころ、当社が小松製作所氷見工場との取引開始以来培ってきた鋳造模型製作技術がCAD/CAMの導入をきっかけにモータリゼーションの波に乗って自動車鋳造金型の製造技術へと進化。杉山工業を経てトヨタ自動車にも納品されるようになっていた。83年に入社、仕上げから機械、設計などを経て金型製造に携わってきた山川雅志は、「杉山工業、新和工業(当時)の仕事が多くなったら仕事が変わった。精度要求の厳しさは小松製作所の比ではなく、従来の仕事スタイルではついていけなくなった」と語るように、83年から85年ごろは、当社における仕事の質、精度意識そのものが劇的に変化しようとするときだった。そのなかで、新しい分野ではあるものの先行企業が多くて採算性が低く、当社の培ってきた鋳造用金型製造技術が活用できないこともあって、プラスチック型をしだいに少なくしていかざるを得なかった。しかし、泰伸専務の後を引き継ぐことになった浩史現社長は、その志を生かす道を探りつづけ、94年には亜鉛合金による試作金型製造新技術などにも取り組んだ。

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