ホーム > 60年の歴史(目次) > 第2章「第2節 木型から金型への転換」プラスチック金型の模索
第2節 木型から金型への転換
プラスチック金型の模索
当社がプラスチック金型に着手したのは、1972年(昭和47)。幸作社長が大洋商工株式会社から受注した仕事が最初だった。受注したものの当社では加工できる者がいない。幸作社長は、取引のあったプラスチック成形加工企業である株式会社高木製作所(現、(株)タカギセイコー)の部長に頼んで同社から小林勝昭ら2人を招聘。プラスチック金型に進出した。
小林は、68年の富山県技能競技大会(富山県産業人能力開発協会)フライス盤2級部門で1位となった実力を持ち、その彼を頼ってさらに2人が当社の門を叩いた。当時を小林は次のように語る。
高木製作所は当時、2年前の1970年に創立30周年を迎え、従業員数も600人超、氷見や新湊に工場を展開する地元では一流企業でした。導入されている工作機械も当然牧野製作所などの一流品でした。それに比べて松村機型は、ひいき目にみても町工場でした。正直、大丈夫なのかなと思いました。そのなかで、米田鉄工所の倣いフライス盤YD800が異彩を放っていました。これだけは高木製作所にもなかったのです。
小林らの入社を受けて幸作の長男である泰伸は、富山県プラスチック協同組合に加入。そのルートから高木製作所の仕事を受注する一方、県内で当社にしかない倣いフライス盤YD800を使用する大型の依頼を受けるなどして、プラスチック金型を鋳造金型に匹敵する事業の柱に育てようとしたのである。
しかし、73年に発生したオイルショックは、石油を原料とするプラスチック業界を直撃。原料の高騰と需要の低迷で、スタートして日の浅い当社のプラスチック金型事業は停滞を余儀なくされた。小林ら技術者も営業など他部門での生き残りをかけるしかなかった。