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第1節 建設機械の発展と共に
京町に作業場を新築移転
小松製作所氷見工場からの受注は、折からの「投資が投資を呼ぶ」岩戸景気(1958年6月〜1961年12月の42カ月)と1964年(昭和39)の開催が決まった東京オリンピックに向けた公共投資・インフラ整備の増加、同社の海外展開に支えられて拡大の一途をたどった。
創業から京町までの位置変遷
A:開業の地(本町)
B:創業の地(平米町)
C:法人設立の地(京町)
当初受注は内燃機のバルブ油圧機器の型だったが、取引の本格化に伴って種類も多くなり、それに伴って従業員の数も増えた。作業場が手狭になったが、増築しようにも敷地は平米小学校に隣接しており、これ以上の拡張は望めなかった。このため61年8月10日、高岡市大坪神明町1丁目3番地の1(現、高岡市京町228番地1〜3)に423.14m2の土地を購入し、作業場を移転することにした。10月1日に完成した新しい作業場は、木造瓦葺き平屋建て、床面積40.58m2。平米町の北西へ約1km、国道8号(現、富山高岡線)を50mほど入った高岡市立成美小学校の横で国道156号にも近い交通の至便な場所である。翌年には、同じ敷地に木造瓦葺き2階建ての家も建設した。
小松製作所との取引によって作業場も新築移転し、作業環境も大きく変わった。平米町時代は納品は自転車からバイクになっていたが、小松製作所氷見工場との取引の開始に伴って運搬用の自動車も購入した。このことを冨田弘は、「平米町時代に社長(幸作)は、作業場の壁に“ミゼット”の写真を貼って、そのときが来るのを楽しみにしていた」と懐かしむ。
63年に入社した清水由雄は、当時のようすを次のように語る。
入社したころの従業員は10人前後でした。受注先は小松製作所氷見工場が主で、ほかに、東化工株式会社(1969年日本重化学工業(株)に合併)、株式会社高木製作所などがありました。ブルドーザーのカバーを木型で造り、アルミで吹いて出したこともありました。社長が仕事をしながら営業にもまわっていました。人情味あふれる親分肌で、「どんな時代が来ても木型はなくならない。頑張れ」といつも従業員に声をかけていました。私たち従業員も意気に感じて夜遅くまで頑張ったものです。奥さんが塗装を担当し、全体が家族的な雰囲気でした。
『品川グループ80年史』より
個人営業の時代は経営者も家族ぐるみで働く。工場が忙しくなると、配達は幸作の妻幸子と冨田の妻美智子が担った。ある日、トラックを運転して小松製作所氷見工場に配達に入ってくる二人を見た工場長が「女性でもああやって自動車を運転して頑張っている」と、従業員に訓示したというエピソードが残っている。60年代は女性が自動車を運転することが珍しい時代だったが、小規模企業は高度経済成長下の労働力不足にあえいでおり、家族ぐるみの協力が必要だった。
ミゼット
トヨタ自動車株式会社がわが国初の国産車“トヨペット・クラウン”、“マスター”を発表したのは1955年。“ミゼット”は、戦後、国産乗用車や四輪トラックに先駆けて復興し、一世を風靡したダイハツ工業株式会社の小型三輪トラックである。四輪の発達とともに、雪道で轍にはまると動けなくなるなどの欠点がありしだいに廃れていったが、自動車産業の黎明期には憧れの商用車だった。