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第1節 建設機械の発展と共に
成長への足がかりとなった小松製作所氷見工場
松村幸作・幸子
高度経済成長期、技術革新の波は産業界だけでなく、国民の生活にも大きな変化をもたらした。1953年(昭和28)に東京通信工業(現、ソニー(株))が国産トランジスタラジオの生産に成功し、55年に本格的な生産が始まると、テレビなどの電子機器がブームを引き起こし、電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家庭電気機器の拡大も重なって消費革命が起こった。この過程で国民の所得水準も着実に上昇し、国内市場は著しく拡大。なかでも自動車産業が発展の基盤を形成していた。
松村木型は、思いがけない形で成長産業の一角に食い込むことになった。59年ごろ、高岡市伏木にあった同業の高辻木型製作所から仕事が舞い込んだのがきっかけだった。当時同製作所は株式会社小松製作所氷見工場(現、コマツキャステックス(株)氷見工場)の鋳造木型を造っていたが、高辻氏が亡くなったために当社に製造を依頼してきたものだった。幸作と高辻氏が親しく、息子が当社で働いていたことも理由の一つだったが、このころの松村木型は、幸作の「時間がかかっても、精度の高い仕事を」という品質・精度へのこだわりが、顧客や業界で高い評価を得ていた。前述の狩野幹洪氏も、「私の会社は鋳鉄品を製造している関係で仕事をお願いしていましたが、松村さんの木型は、塗方の塗りしろや湿度によるふくらみまで勘案して造られており、中子がスムーズに収まる。同じ木型でもよその会社がてこずる難しい木型を造っていました」と、その技を評価している。
小松製作所氷見工場は、52年に小松製作所が中越電化工業株式会社を吸収合併し氷見工場として発足したもので、鋳鉄品を製造していた。木型製造には設計図をはさんで発注者との綿密な打ち合わせが必要だから、高辻木型が受注した仕事を当社が製造していることは自然に同社氷見工場の知るところとなり、直接受注するようになるまで時間はかからなかった。職人の独立や新規参入によってこのころになると県内でも木型屋は増えていたが、その多くが鋳物や銅器関係で、工業用木型を製造しているところは北陸に範囲を広げてもその数は限られていた。一方、小松製作所は、名神高速道や東海道新幹線の起工、大規模電源開発などに伴う建設機械部門拡充で次々と新型車の量産を開始しており、優秀な型屋をさがしていた。
小松製作所は、1917年に石川県能美郡国府村(現、小松市)で銅山を経営していた竹内鉱業が自家用機械生産のため開設、21年に同社から分離独立した。戦時中、米軍の圧倒的な機械力を目にした軍部によってブルドーザーの製造を命じられ、これで培った技術力を戦後民需に転換。復興を通じてトラクターやブルドーザーの国産化に成功し、建設機械・重機械のトップメーカーとして拡大発展していた。51年ごろにはすでに海外展開を始め、55年以後の経済成長期に入ると公共投資の増加で急拡大。60年には世界最大のブルドーザーメーカーであるキャタピラー社の日本進出に対抗するため徹底的な品質向上・技術開発を推し進め、61年9月には全社に品質管理(QC)も導入するなど、当時の日本の産業機械メーカーとしては最も高い技術・品質水準にあった。そうしたなかにあって氷見工場は鋳造素材のマザー工場として位置づけられ、したがって木型にも高い精度を要求した。松村木型は、この小松製作所氷見工場との直接取引をきっかけに、個人営業の木型屋から、機械産業の一角を担う企業としての地位を確立していくことになった。松村木型が小松製作所氷見工場から直接受注するようになったのは60年。自身も腕の良い木型職人だった冨田弘は同社との取引を次のように語る。
小松製作所は品質に関しては厳しかった。1個の型でたくさん鋳造できれば機械の投資資本は小さくてすみます。例えば木型1個で機械を10基造れば10分の1ですむわけです。よく、「100個の型に耐える精度の木型をつくれ」と言われました。社長(幸作)も常日頃から「時間がかかってもいいから、いいものを造れ」と言っていました。そういっていいものを造ったから、小松と取引が続いたのだと思います。精度を要求される代わりに、価格も良かった。
「時間がかかってもいいから、いいものを造れ」と言いつづけていた幸作は、自らも68年5月に一級技能士資格を取得した。後述するが、当時は小松製作所の要請もあって木型から金型への転換、さらにはプラスチック型への進出も模索していた時期で、年齢も45歳。こうした時期の資格取得に、幸作の飽くことを知らない向上心と、現状を良しとしない職人魂をみることができる。
ちなみに、小松製作所氷見工場と前後して60年には当時破竹の勢いだった般若鉄工所からも取引依頼があった。高岡市に本社を置く旋盤メーカー般若鉄工所は、折からの好景気による設備投資の波に乗って工場、雇用を急激に拡大、61年には全国の生産台数の40%を占める驚異的な成長を遂げていた。高賃金を支給し、不足する労働力は農山村の働き手を朝晩マイクロバスで送迎して確保、企業によるバス送迎の端緒をつくった。当時の当社にとって願ってもない取引先にみえた。ところが、幸作は取引には応じなかったのである。当時小松製作所氷見工場との関係はまだ高辻木型を通してのものだったが、幸作は小松製作所を選択したのである。これには理由があった。幸作はすでに、同社に勤めていた柴田木型時代の兄弟子などを通して同社の支払い状況が悪いことや技術水準が甘いことを把握していたのである。幸作に言われて同社を訪問した冨田も「人が多すぎて合理化されていない。いずれ駄目になると感じた」と、語っている。幸作の予想どおり、64年に般若鉄工所は資金調達難と技術水準の甘さによって破綻した。幸作の情報収集力は的確で、以来当社は60年にわたって手形の不渡りや踏み倒しを経験したことはない。
竹内鉱業
吉田茂の実兄竹内明太郎が創業。