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60年の歴史 第1章

第2節 松村木型製作所の創業

「ガチャマン」の波に乗った紡績向け木型

1948年(昭和23)12月24日、松村幸作は冨田幸子と結婚した。幸子は26年1月3日生まれ。父・冨田徳次郎、母・はつゑの二女で、当時高岡市大坪地子560番地に住んでいた。幸作が借り受けて仕事場にしていた旧柴田木型に近く、通勤時に時々顔を合わせてあいさつを交わしていた。後年、幸作は友人に「女房には昼も夜もなく働かせ、苦労をかけた」と話しているように、幸子は生涯幸作の片腕となって夫を支えつづけた。

結婚(幸作・幸子)

83年入社の大森明には、幸作、幸子夫妻との忘れられない思い出がある。当社が自動車分野に販路を拡張して活況を呈していた85年、従来からの取引上やむなく引く受けた急ぎの仕事で大森たち従業員が前日から連続の徹夜に入ろうとした2日目の午後10時ごろ、幸作、幸子夫妻が現れ、「あとは俺たち二人がやるから」と、仕事を引き継いで大森たちを帰宅させ、翌朝までに仕上げていたというのである。「奥さんも社長を支えて、一緒になって働いていた」と、幸子の内助を讃える。

終戦とともに日本に駐留したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は深刻な食糧問題に対し、繊維産業による輸出剰余金で食料を輸入して解決しようと、46年に綿紡績については400万錘すいの枠で生産設備増強を奨励、50年にはその制限も撤廃した。これに伴って繊維機械の修繕、新製品需要が急拡大し、戦時中に工作機械や兵器生産に転じていた多くの企業が繊維機械製造に復帰した。加えて人々の衣料もその絶対量が不足していたから、繊維生産設備投資が急激に拡大した。富山県は戦前、伊藤忠兵衛などの関西系資本を中心に近代的な紡績工場が相次いで新設され、35年ごろには大阪、名古屋に次ぐ綿紡産地を形成していた。高岡市周辺だけでも鐘淵紡績株式会社や日清紡績株式会社、富山紡績株式会社、呉羽紡績株式会社などの工場が林立していた。これらの工場がこれによって復興、49、50年ごろには40万錘を超えるまでになり、これに伴って機械工業も活気を呈した。地元高岡の鉄工所がわが国初の自動スクリーン捺染機を開発したのもこのころだった。

さらに、50年6月25日には朝鮮動乱が勃発。低迷していた日本産業に特需と輸出の急増をもたらした。繊維産業は、特需に加えて長年抑圧されてきた国民の繊維消費に対する潜在需要が爆発し、「糸へんブーム」「ガチャマン(ガチャンと織れば万単位の儲け)」と呼ばれる好況に入った。紡績工場がどんどん建設され、50年末に51社、119工場、438万錘だった生産設備は51年末には91社、173工場、637万錘に増えた。これに伴って繊維機械の生産額も50年の153億円が51年には531億円に急増した。その波は当然、木型にも及んだ。

松村木型には、紡績関係の工作機械を製造している中野鉄工や石動製作所から鋳造木型の注文が引きも切らなかった。冨田弘は、当時を次のように語る。

当時は機械部品用の木型屋が少なかったこともあり収入は良かった。私が入社したとき、従業員は3人で、設計図は社長(幸作)が担当していました。木工機は手押し。木工旋盤と木工ミシン、万能木工機、丸鋸、そっこう盤がありました。ミシンは足踏みのもので、それに細い糸のこがついていました。木工旋盤は電動でした。それが面白くて、飽きずに見ていたものです。物資不足で物がないときでしたから、そのときの電動機械というのは、ずいぶん導入が早かったと言えます。

当時当社は、紡績機械を造るための歯車やギヤといった小物の鋳物木型を造っていました。社長が大阪で働いていたときは大きな工作機械などを扱っておられたと聞いていますが、高岡ではそういう需要は少なく、取引先も4、5人でやっている小さな企業ばかりでした。

社長は歯車の木型が得意でした。丸いものに歯をつけていくのですが、鋳造によるふくらみ、ゆがみなどを勘案して規格どおりのものがあがるように造っていくのです。歯車には0.1mmの精度が要求されました。精巧なものを造るためには技術力がなければなりませんから、造る人は少なかったですね。

木型屋には、精巧なものを造る木型屋、大きなものを造る体力がいる木型屋などがありますが、造るものによって客層がだいたい決まってきます。社長は、機械部品の木型製作にこだわっていました。あのころは紡績工業が盛んで、紡績関係の工作機械を製造していた中野鉄工や石動製作所、長柄鉄工などから受注していました。これらの鉄工所では、鐘淵紡績、日清紡績、呉羽紡績向けの機械を造っていたのです。石川県の繊維機械メーカー株式会社石川製作所からも受注していました。社長は、最初は設備投資をできるだけ抑えて利益を上げる戦略で、小物を受注していました。1台の織機には何百点という部品が要りますが、小物には高い精度が要求されるため職人が少なく、価格競争にはならなかったからです。

錘:紡錘を数える単位

 

1937年の日中戦争開始時には9工場72万錘だった富山県の紡績業は、9年に及ぶ戦争でその設備の大半がスクラップ化。終戦の45年には4工場23万7000錘にまで落ち込んでいた。

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