松村幸作
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第2節 松村木型製作所の創業
松村幸作
高岡に戻った幸作は、当初実家の脱穀場で木型を造り始めたが、1946年(昭和21)1月、主人が亡くなって後継者のいなかった湶町の柴田木型の道具、機械を作業場ごと借り受けて仕事を始めた。
1955年ごろ湶町停留所付近を行く新高岡〜西町直通電車。湶町は、1958年に広小路に改称された
幸作の妻幸子の弟で1950年に当社に入社して幸作を支え続けた冨田弘は、「社長(幸作)は、機械部品の木型製作にこだわり、高岡で盛んな銅器美術関係にはあまり関わりませんでした。当時は銅器製品を造るための木型製造の仕事は平均してあったのですが、機械部品の仕事は少なかったのです。それでも社長の意志は堅く、銅器向けはどうにも仕事がないときに少しだけやったことがあった程度です。銅器向けは簡単なので仕事は楽ですが競合も多く単価的に良くなかった。それが銅器に手を染めない理由だったのでしょうか。開業する前には、鍋釜を担いで全国を売り歩いたと聞いています。それで独立する資金を貯めたのでしょう」と、述懐している。
明治以降に近代工業として確立された木型は軍需向けが中心で、大阪では幸作もそうした軍需向けの精密な木型を造っていた。そのためか、当時ブームに沸いていた鍋・釜の仕事にはほとんど手を染めなかった。文検とそれに続く教師の道を断念して入った木型の道である。ハードルの低い鍋釜に手を染めることを潔しとしない職人気質、そして、「家庭に鍋釜が一巡すればブームは去る」とみる読みの深さと、釜ブームの間に全国を売り歩くことで観察し、得たさまざまな情報をもとに幸作は、来るべき時代と工業用木型の将来性を確信していたと推察される。
現在の平米小学校(左)とその界隈(右)
平米小学校の前は、当時としては大きな道路が完成したばかりで、正門に向かって左側に松村木型製作所があった
当時、極端な物不足が原因で悪性インフレが進行していた。富山県警察部の調べでは、終戦直後に1人1カ月40〜50円だった市部の生活費は、11月には70〜80円に、さらには100円に上るなど物価が急激に上昇していた。人々は、配給の食糧や生活物資だけでは足りず、衣類や金目の品物を米や魚と物々交換するタケノコ生活を強いられていたから、良心的な価格で全国を回れば鍋は飛ぶように売れ、十分に利益も出たと思われる。
幸作の行商はむしろ情報収集にあったと考えられるが、こうしてつくった資本を元手に幸作は、1946年1月自身がかつて通った平米高等小学校の正門横、高岡市平米町78番地(現、本町78番地)に松村木型製作所を創業した。工場は実家が建ててくれたという。平米高等小学校は戦時中に平米国民学校(1947年高岡市立平米小学校に改称)と名称を変えていた。妻幸子の記憶によれば、道路をはさんだ向かい側には、戦後公選となって初の高岡市長に当選した武田儀八郎の捺染工場新興工業があった。
こうしたなか、戦前ベークライト漆器で一世を風靡した高木作次郎が高木製作所(現、(株)タカギセイコー)を起こしてソケット、プラグ、スイッチカバーの製造を開始したほか、北陸アルミニウム器具製作所が北陸アルミニウム株式会社として新たなスタートを切るなど、医薬品やプラスチック、アルミ製品などの分野でも個人や企業の創業、生産再開が相次ぎ、平和への胎動がみられた。
平米小学校界隈
高岡に「山町筋」と呼ばれ、古い土蔵づくりの家々が散在する町並みがある。昔、高岡の中心部では、家の若だんなや息子を「オアンサン」と呼び習わした。とくに山町(御車山を持っている町内11カ町)の住民の息子を「山町のオアンサン」と言った。山町のオアンサンは、長い間、高岡市とその周辺ではステイタスで、皆のあこがれの的であった。とくに色町花街では、下にもおかぬ扱いをされたものだという。