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60年の歴史 第1章

第1節 松村幸作、その生い立ち

悲惨な戦争体験

1943年(昭和18)11月、20歳になった幸作は田中木型製作所を退 職した。召集である。

軍服姿の幸作

軍服姿の幸作(左)

戦前の日本では、男子は満20歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられていた。検査結果は、「甲種」から順に「第一乙種」「第二乙種」「丙種」などにランク分けされ、身体や精神状態が兵役に適さない者は「丁種」とされた。徴兵検査で甲種合格となるのは、国から「優秀な帝国臣民(一人前の男)」と認定される反面、現役徴集の可能性がきわめて高いことを意味していた。「甲種」から「第一乙種」「第二乙種」「丙種」は各都道府県にある「連隊区司令部」の兵役原簿に登記(徴兵年次、兵科など)され、甲種、乙種合格者のうちから必要な人数が抽選で集められた。しかし、幸作が検査を受けた43年には戦闘の激化で抽選制度はすでに廃止され、現役入隊後に各兵科の訓練を終えるとそのまま戦地へ派遣された。

初の軍旗祭に参加

35聨隊初年兵が、初の軍旗祭に参加(前列右から4人目が幸作。1944年4月23日)

幸作は、歩兵35聨隊第2兵砲中(小)隊に入隊した。後に、「戦争に行っていたときは大砲の弾を飛ばす角度を計算していた。一発放弾するたびに、角度、距離を計算した」と語っている。また、兄妹には、兵役中に父親死亡の知らせが届き、悲しみにくれる幸作を気遣った上官が「『松村君のお父さんが亡くなった。全員捧銃!』と号令をかけてくださった。私ごときにと、感謝で涙した」と話しており、上官にもその資質と能力が評価されていたようである。

幸作が入隊したとき富山歩兵35聨隊は金沢第9師団の下で東満州国境の守備についていた。44年6月15日には米軍がサイパン島に上陸して日本軍が玉砕すると、米軍は占領した基地から日本本土をはじめ、当時日本領や日本軍占領地であった台湾や朝鮮、あるいは旧満州国、東南アジア各地に空爆を開始し始めた。このため金沢9師団にサイパン奪還の命がおり、富山歩兵35聨隊もともに釜山に集結したが時すでに戦局は決しており、作戦は中止。35聨隊は、次に32聨隊に編入されて沖縄の守備についた。このまま沖縄にいれば幸作も太平洋戦争最大規模の地上戦に巻き込まれていたが、沖縄戦直前の45年1月に台湾に配置替えとなり、高雄地区の防衛にあたっていたときに終戦を迎えた。

こうして1945年8月15日、満州事変以来15年に及んだ戦争が終わり、幸作は台湾から引き揚げて日本に戻った。しかし、召集まで働いていた大阪は44年12月以降、終戦までに50回を超える空襲を受け、なかでも45年3月13日から8月14日までの5カ月間にじつに8度にも及ぶ大空襲で壊滅的な打撃を受けていた。さらには、戦前までに京浜、中京、京阪神に次ぐ第4の工業都市となっていた富山市も市街地の大部分が焦土と化していた。軍需産業は崩壊し、空襲によって重化学工場などの生産設備はスクラップ同然となっていた。

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