1955年ごろの高岡駅駅前通り。
道路はまだ舗装されていない
現在の本町。
左の家屋が、松村木型製作所だった場所
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第1節 松村幸作、その生い立ち
戦争が終わって
太平洋戦争の敗戦からわずか5 カ月後の1946年(昭和21)1月、高岡市本町78番地に後継者がいないために廃業した木型屋の工場を借りて一人の青年が木工所を開業した。青年は22歳の松村幸作。これが松村木型製作所、現在の松村精型の開業である。
本町の呼び名は47年ごろからで、それ以前は湶(あわら)町の一部。国道156号に面する商業・住宅地で、47年に加越能鉄道の高岡・伏木港間が開通し、停留所がおかれた。
1955年ごろの高岡駅駅前通り。
道路はまだ舗装されていない
現在の本町。
左の家屋が、松村木型製作所だった場所
開業当時は、長かった戦時体制下にあって国民の生活は疲弊し、敗戦のショックと深刻な食糧難で、人々は茫然自失の状態だった。これに45年の凶作が追い打ちをかけた。とくに戦災を免れた高岡市は、人口が多いにもかかわらず食糧が少なく、市長を本部長とする餓死対策本部を設置して近郊の農家に食糧の出荷懇請に歩いてまわるほどだった。一方、戦災によって国内の主要都市が工場設備の破壊で生産能力を失うなか、戦火を免れ、かつ伝統的な鋳物の町であることから、時ならぬアルミニウム鋳物の「鍋・釡ブーム」に沸いた。これは、戦時中の軍需生産優先によって長年補給されなかったうえに空襲による焼失などで不足していた生活用品が平和の訪れとともに大需要を引き起こしたことが理由だった。とくに鍋・釡・食器は、大阪、東京、広島などの主要生産地が空襲で生産不能に陥っていたことから、戦災を免れた高岡に注文が殺到したからである。
高岡は戦前から高岡銅器の鋳物技術があったうえ、戦前、低廉で豊富な電力とボーキサイトの輸入に適した伏木港を利用して進出した日満アルミニウム株式会社(現、昭和タイタニウム株式会社、1933年創業)と日本曹達株式会社高岡工(1934 操業開始)が終戦までアルミニウム精錬を行っており、他の地域に比べて原料の取得にも有利だった。
鍋・釡ブームを報じる北日本新聞
造れば飛ぶように売れる状況に、戦時中の転廃業者や復員軍人、引揚者たちが持てる鋳物技術を駆使して鍋・釡・バケツ・火鉢・やかん・花瓶の生産に乗り出した。47年の記録では、高岡地区のアルミニウム鋳物 業者は約200軒、従業員は約300人、地金使用料は月300トン、生産額は3000万円に達し、国内需要の60%を賄っていた。最大手は北陸軽金属工業株式会社で高岡地区の生産量の30%を占めていたが、戦前竹平政太郎が設立した竹平製作所も弟の栄次が事業を継承して生産を開始、売り上げを伸ばした。46年度の富山県の多額納税者上位20人のうち13人が高岡市在住のアルミ製鍋釡製造業関連業者だった。当時の盛況を北日本新聞(1946年10月17日付)は、「高岡駅から連日積出すアルミ釡や鍋の山、市内商店街の半ばを占めるアルミ製品などで、全市白銀一色にうづまるかのごとく県外旅客の瞠目せしめるの盛観」と伝えている。
こうしたなか、戦前ベークライト漆器で一世を風靡した高木作次郎が高木製作所(現、(株)タカギセイコー)を起こしてソケット、プラグ、スイッチカバーの製造を開始したほか、北陸アルミニウム器具製作所が北陸アルミニウム株式会社として新たなスタートを切るなど、医薬品やプラスチック、アルミ製品などの分野でも個人や企業の創業、生産再開が相次ぎ、平和への胎動がみられた。